煎言万語 vol.11
地方に生きるぼくらは、地域の伝統や文化を大切にしていかなければと思っている。程度の差はあるにしても、その存在を無視して生きている人は少ないと思う。
けれど、その伝統や文化という言葉に表されているものが、具体的に何を指しているのかはよくわかっていない。いざそれについて考えてみようとすると、その輪郭がとても曖昧なことに気がつく。
それが日本の中で、世界の中で、どうユニークでどう際立っているのかもよくわからない。他の土地を旅すると、一見すると似たような伝統・文化が多いことにも気が付く。それは何が似ていて、何が根本的に違うのだろうか。
日本という小さな国の中の「ローカル」の間に、伝統文化の差異を見出そうとすること自体が無意味なことなのだろうか。「和食」や「着物」、「華道」、「茶道」、「武道」。あげればキリがないほどに、わたしたちはユニークな体系の慣習や知恵、技術を持っている。しかし、ぼくらが地域で受け継いでいくべき「伝統」や「文化」はそういったものだけを指すのだろうか。
日本が近代化していく過程では、その地域の文化や慣習を古臭く感じ、そこから逃れるように都市部で新しい生き方を作り上げている人たちがいる。日本人だけでなく、世界のどの国でも多かれ少なかれそういう生き方を選んでいる人たちがいる。そこにはいろいろな理由があるだろう。けれど、おそらく地域で伝統文化を大切にして生きている人たちと同じくらい抽象的にしか、その「逃れたい伝統や文化」は捉えられていないかもしれない。
日本のローカルで生きるぼくたちは何を受け継ぐべきだと考えていて、そこから逃れたかったローカル出身の都市生活者は何を刷新しようとしているのか。
地域にあるお祭りや神事、そこに古くからある歴史は、記念碑的には存在しているものの、その前後の変化や背景は忘却されている。なぜそれが必要になったのか、なぜそういうふうに仕上げていったのか、なぜそれが歴史として記録されたのか。そういうことについては語られなくなっている。語るまでもなかったのかもしれない。
その語られなくなったことを語り直すことは可能なのだろうか。
記念碑的に存在している伝統や文化の、その起源や転換点では何が起きていたのだろうか。
これはただの直感でしかないが、生活の中での営みが、「伝統化」・「文化化」していくその契機では、それまでとは異なる視点が差し込まれていたのではないか。そういうことに向き合っていくこと自体が、曖昧な「伝統文化」を自覚することができるきっかけになり、その上で新しい伝統を作っていく力になるのではないか。
その「差し込まれた視点」は、それまでの平凡な日常に特殊な解釈を与えたのかもしれない。
そこにはある種の「曲解」や「誤解」もあったはずだ。しかし、その解釈こそが、ローカルで生きているぼくたちに何らかの影響を与えてくれている。良くも悪くも。
「差し込まれた視点」。音声でしか話していなかった人類が、単語を自覚し言葉を見出した「書き言葉」という発明のような、単語を浮かび上がらせるパンクチュエーションやスペーシングのような技法のような、ある種の「空白」。それは自覚する必要がなかったかもしれないが、それを見出してしまった後には欠くことができない必然的な自然。
その「差し込まれた視点」によって起こった「読み替え」を並べて繋いでいくことによって、その地域の伝統・文化の「癖」のようなものを見出すことはできるのか。
その「読み替え方の癖」にこそ、もしかしたらぼくたちが守りながらも造りかえていくべき伝統や文化が表れているのではないか。