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煎言万語 vol.7

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前回までは、ベッドタウンがパラマウントベッドタウンに進化していく過程をまとめてみた。

その時、「地縁・血縁的所有欲」一派は一体なにをしていたのか。

これまた想像だが、適当にまとめると「(新しいことは)なにもしないほうがいい」が彼らのとった戦略だったかもしれない。「コツコツ暮らしを大事に」作戦だ。「ガンガンいこうぜ」ではなく「いのちだいじに」。お隣でわいわいしている鎌倉を横目に。

場合によっては、「土地が生み出したお金を三浦のために再投資するよりは、別の場所に投資をしたほうがいい」という判断をした人もいるかもしれない。スタートアップとかに投資とかしちゃってるかもしれない。

ここでいきなり余談だが(いやこのブログ自体が余談なので余談の余談です)、直木賞を受賞した千早茜さんの小説「しろがねの葉」を読んでいる。世界遺産の石見銀山を舞台にした小説だ。

詳細はもちろん小説を読んでほしいし、もし興味があればわたしが関わっている世界遺産の港側の町、「温泉津」のWATOWAにも泊まりに来てほしい(宣伝です。いい宿たくさんありますし、おもしろい人たくさんいます)。言いたいのは石見銀山が素敵だとかそういうことではない(めっちゃいいところです)。

これまた勝手な見方だが、限られた資源である「銀」を暗い「間歩」という洞穴に入って「掘る」という行為が、三浦のようなベッドタウンで起きていることとすごく重なるのだ。これは三浦に限ったことではない。そして、「山師」と呼ばれる銀の鉱脈を見つけることができる「特殊能力を持つ人」は、現代社会で言うと起業家だったり事業家だったり、コンサルだったりするような人たちかもしれない。

「銀」というのは、たまたまそこにあった資源に過ぎないし、その量にはもちろん限りがある。それはその「土地」がたまたまもたらしてくれた「お恵み」のようなものだ。三浦にとってのこの「銀」を生み出す「銀山」は、近くにある「首都圏」という「金の鉱脈」だ。首都圏は掘れば掘るほど(資本や人を投下すればするほど)、大きな「金」を掘り出すことが可能だ。もちろん現代では「金」は、人間だけが認識している共通の「幻想」なのだけれど。

三浦に住む人々は、「銀」を掘り起こすため(お金を得るため)に「間歩」のような暗い洞穴(鉄道や地下鉄に乗り)に入り、暗い洞穴の中で(首都圏の高層ビルで)せっせと銀を掘る(毎日ひたすらに働く)。少しずつ毒の気を吸いながら。その「銀」はどこでどういう風に誰が使っているかは知る由もない。海外にめっちゃ流出してたりすることももちろん知らない。

三浦の「地縁血縁所有欲」一派は、そういった「銀堀り(かねほり)」たちや「山師」たちの生活を支えている。つまり、「銀山」が近くにある限りそこには一定数の人たちがたむろすることになる。そういった「土地の立地」(なんかゲシュタルト崩壊しそうな言葉になったぞ)が、「いのちだいじに」作戦を生み出すのだ。

三浦に石見銀山をくっつけたせいで、とてもわかりにくい話になってしまった。

簡単に言うと、「土地・建物を所有している」と言う状態を続けるだけで、特に問題なく生きていける状況がそこにあるのだ。ただそれだけだと人は退屈してしまう生き物なので、そこで何らかの生業をしている人がほとんどで、そうすると生活に困ることはほとんどないだろう。

「地縁・血縁的所有欲」一派の人たちは、世代を越えた長期戦を挑んでいるのだ。「いのちだいじに」、そして「土地はだいじに」。その判断は個人や家族レベルでは問題なさそうな気がする。

難しいところは、人間が「群れを作って生きる」という生存戦略をとっていることとのギャップなのかもしれない。弱者を救済するインフラや集団の相互扶助的な関係性が生存確率を高めるはずだ、というのが、クロマニョン人より少しひ弱だったわれわれの祖先ホモ・サピエンスが編み出した生存戦略だった(たぶん)。

つまり、行き過ぎた個人主義的(家族主義的?)な判断は、最終的にはコミュニティ全体に悪影響を及ぼし、人間という種の生存確率を低下させてしまうのかもしれない。ただ、いまわたしたちが生きている環境は祖先が生きていた時代ほど過酷ではないだろうし、現代社会では違った形で「集団」や「コミュニティ」が形成・維持されているので、そんなに短絡的に結論は出せないと思うけど。昔に比べたら、個人主義的判断を尊重しながら、公共的な最適化を行うことは少しずつできているのかもしれない。(これは現代社会の大きなテーマなのかも)

三浦的ベッドタウンでは、「家族的類似性」みたいなものを拡張できる「センス」が問われている。家族になることは無理だし、なりたくはないのだが、「家族っぽい感じ」を錯覚してしまうなにかが必要とされている。果たしてそれは何なのだろうか。

次回に続く。(長い)