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煎言万語 vol.10

  • #煎スタッフ
  • #習慣

先日とあるイベントに呼ばれてお話をさせていただきました。自分で企画するイベントでもあまり前に出ないようにしているのですが、信頼している人たちからのお誘いはなかなか断れません。

経営者としては自分たちが作っている事業のことやサービスの内容については、率先してアピールしていくべきだとは思います。しかし、まだ中身が伴っていない時期にあれこれと良さげなことを言うのは避けたほうがいいように考えています。(地域のことや、事業のあり方そのもののことを語る時は、どうしてもその地域にいる先人たちのことが気になってしまいます。)

「言行一致」とか「不言実行」みたいなところに、粋なあり方を感じているのかもしれません。

昨日のイベントでも感じたのですが、シンプルに「行為の積み重ね」に勝る言葉はないなと思います。その積み重ねから生まれてくる「肉声」というか、「切実な実存の声」みたいなものは、不思議と人の心を動かしてしまうようです。技術がいくら発展して世界が目まぐるしく変化し続けても、「声の力」というのは人間が持っている普遍的な力なのかもしれません。その上で語られる「ビジョン」的なものの説得力は、一朝一夕で獲得できるものではない。

一方で、SNSから流れてくる他人の人生や大量に生み出される動画コンテンツからもろに影響を受け、生き辛くなっている若い人たちも増えていると思います。コンテンツを鑑賞するように、自らの人生も楽に変わっていくような錯覚を覚えてしまうのかもしれません。同時にそれが実現困難なことに直面し、無気力になっていく。自分が話している言葉そのものが空虚なものとして、自分の中で響いてしまう。面倒な時代だなと思います。

自分の言葉がイベントでどう響いていたのかはよくわかりませんが、自分にできることはその声が自分の中で空虚に響かないよう、そしてそれを聴いている人たちにもどっしりと響くよう、日々自分にできることを積み重ねるしかないのだと思います。

わたしたち日本人は本来そういうことが得意な人種だったと思いますし、そういうことをしっかりと実践されている先輩方も周りにたくさんおられます。

しかし、そういった一見地味なこと、切り抜かれる動画と動画の間で起きている物語のようなところに、なかなか価値や美意識が見出されない時代が来てしまったのかもしれません。「時短」や「タイパ」という言葉自体が浸透してきている現代で、「時間の蓄積による価値」=「長く続けることができるという価値」はどう評価されていくのでしょうか。

イベントの中でも問いかけられましたが、「経済」の本来的意味である「経世済民」に戻ると、「経済性」と「社会性」は対立する物事でも何でもなく、連続し往還していた営みだったと思います。そこには生活にしろ、事業にしろ、お祭りや地域の行事にしろ、「長く続けていくこと」自体の価値がきちんと認められていたように感じます。

要は経済性と社会性がつながっていることは当たり前で、その往還をどう長く続けていくか、ということの方が大事な問いだった。それが対立項に見えてしまう価値観や視点そのものが、わたしたちが取り組まなければならない課題ではないでしょうか。

言い換えると、使い捨てられるイメージのある「消費」という言葉ではなく、使われはするけれど回復する余地のありそうな「消耗」のような生活スタイルを、どう「経済」の中に取り戻していくか。持続可能性という言葉でも言い換えられるのかもしれません。もう少し異なる形の交換が必要なのかもしれませんし、既存の消費のあり方に変化を起こしていけるような感性が交流し合うことも大切かもしれません。

経世済民的な感覚が当たり前だった時代では、人間の短い一生でできることは限られていて、その儚さや無力さにも自覚的であった時代があったのだと思います。どういう形であれ、あっさりと失われそうな知恵や技術を世代を越えて受け継ぎ発展させていくことが、家族や共同体にとって切実な課題だった。別の方面から見ると、「死」はとても身近な存在だった。そういうふうにも言えるかもしれません。

今は全てが情報化され記録・保存される時代です。出会いはアプリケーション化し、思い出はいつでも簡単に再生され、感動は好きな時に消費することができます。これからもそうなっていくこと自体は変えられないと思いますし、そういった偽装された何かはもっと高度に隠蔽されていくと思います。そして、いつの間にかその「偽装そのもの」が「自然なこと」「当たり前のこと」だと私たちは錯覚していくと思います。

自然と人工の違いというのは、人間が勝手に作り出した都合のいい境界なのかもしれません。その境界線はいつも「自然」に飲み込まれていく。

見飽きた茶番を鑑賞するのはやめて、わたしたちは何を実践すべきなのでしょうか。

そういったことを感じたイベントでした。