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煎言万語 vol.8

  • #三浦海岸
  • #まちづくり

3回にわたって三浦的ベッドタウンを紐解いてみてきた。(前回の記事はこちら)

簡単にまとめると、三浦は「開発者の欲望」「地元民の欲望」「移住民の欲望」の三つ巴になっている。しかも、そこでは対立がそこまで表面化せずに、それぞれがそれぞれの欲望を実現しつつ何となく成り立ってしまっている。(お金さえあれば)個々のプレイヤーが思いのままに意思決定をすることができる、ある種の「自由さ」がそこにはあるのかもしれない。ただ、お互いの欲望をわざわざ擦り合わせる必要がないので、「公共」的な意識は芽生えにくい。そしてこの光景は特に珍しい現象なわけでもなく、世界中の都市近郊で起きている「喧騒」のようなものかもしれない。ある意味ではとても平和な状況だ。

ただ、人口減少・高齢化時代に入ってからは、その「三国志的」状態に揺らぎが起き始めているのかもしれない。新しくマンションを作ってもなかなか売れない可能性もあるし、閉店したお店に新しいテナントは入りにくくなっている。地主さんたちが経営している古いアパートは借り手が少なくなってきているし、憧れの2階建マイホームは高齢世帯にとって不便で無駄に広い家になってしまっている。その光景を見て育った若者や子育て世帯は、首都圏や地方都市のような「別のより良い環境」を求めて街から去っていってしまう。

冒頭でも書いたとおり、これは別に三浦に限った話では全くなくて大都市近郊のベッドタウン付近では(特に山を切り開いたニュータウン的ベッドタウンではなく、元々農村だった場所が宅地開発された町では)、よくある光景なんだと思う。それぞれが思いのままに欲望を実現していく過程で、元々暮らしを支えていた別の要素、つまり、教育的なものや文化的なもの、環境や景観、そして交通などのインフラなどに手を入れ維持してていくための「お作法」のようなものをだんだんと忘れていく。共同体から「お祭り」が消えていくように、「自治」のようなあり方が失われていく。

最終的には、学校や公園のような「みんなの」場所自体も、誰かから与えてもらう「サービス」のような認識が染み付いてしまう。「お祭り」は商業化された「イベント」に変わり、「公園」は「テーマパーク」のように綺麗に維持され、「学校」は「塾」のように知識を詰め込む場所に変わる。

本来自分たちの「より豊かな暮らし」を支えている大切な「コモンズ」が、自分たちがわざわざ手を入れるべきものごとではない「他人事」に変わっている。

その状況に違和感を感じ、なんとか状況を変えようとしている人たちは少なからずいるとは思う。けれど、そもそもお互いの利害を擦り合わせるための「対話の仕方」自体を忘れてしまっていて、欲望同士が顔を合わせると今まで表面化していなかった対立だけが浮き彫りになってしまう。「欲望を擦り合わせる」というそのストレスフルなコミュニケーションは、「豊かな暮らし」をおびやかす厄介な事でしかなく、その障害を乗り越えるための利己的な理由やみんなで共有できる「大きな物語」ももはや見当たらない。そのことを考える気力や情熱はどこかで無くしてしまった。

衰退していく街や商店街が全て同じような状況にあるわけではないと思う。ただ、資本主義が無意識に人々に強いてしまう力が、その「自由だけど良くない」状況を作り出してしまっているように感じてしまう。わたしたちに染み付いてしまっているその力は、「家族」を「個人」という単位に分割し市場を拡大させつつ、生産性を上げるためにあらゆる物事の分業化・専業化を促している。

その「分けていく」(分断していく)力は、みんなで手を入れていくべきだった「公共」的な物事を、容易に他人事化して、疎遠にしてしまっているのかもしれない。

だからといって、安易に資本主義を否定することはなんだか現実的ではない気がするし、分かり合える人たちだけで小さなユートピアをどこかに作り上げることも、ある種の他人事化と変わらない気がする。「閉じこもってコミュニティを作る」という意味では、そういうコミューンのような発想は、「開発者」「地元民」「移住者」のように交流せずに暮らし続けることができるベッドタウン的状況とほとんど変わらないのではないだろうか。

個々人の生き方や趣味嗜好、そして利己的な欲望を大切にしたまま、その「自由な自分」を「公共」に還元していくような仕掛けはありえないのだろうか。

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