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煎言万語 vol.9

  • #煎スタッフ
  • #起業
  • #まちづくり

うちの会社にはビジョンや理念は存在しない。

理由は2つある。ひとつは、自分の経営者としての力量・経験がシンプルに不足しているからだと思う。何かを新しく始めようとしているときに、頭でいろいろと構想を練ることはできるが、実際にやってみるまでは自信もないし、感覚的にもしっくりこないことはよくある。それは多くの人も経験しているごく普通のことだと思うのだが、経営者になったことも、0から事業を作ったこともない自分が、そんなに腹落ちするようなことを急に言える自信もセンスもない、というのが正直なところだ。あまり嘘っぽいことは言いたくないし、どうせやっているうちに変わってしまうだろうし。

(半分以上言い訳なのだが)合理的にあれこれ考えるよりも、「事業をつくっている」という立ち位置にリアルにたてた時の、これまでとは異なる生々しい経験をもっと味わっていたいということなのかもしれない。そこに没頭することで、これからの行動を支える核になる人間観だったり哲学・思想のようなものだったりが見出せるような気がしている。

一方で、事業や組織を組み上げていく上で、ビジョンや理念を掲げる以外の方法はないのだろうかとも考えてしまっている(考えてみたい)自分がいる。これが2つ目の理由だ。そういう組織のあり方はあり得るのか。

割と素朴な疑問なのだが、例えば世界最古の企業である金剛組のような「組織」は、どうやってばらばらな「個」を「組織化」していったのだろうか。そこで働く職人さんたちやそのリーダー的存在の人は、どうコミュニケーションをとり、どういうふうに自分達が作り上げるもののクオリティを上げていたのだろうか。そしてその初期の頃の成果はどういうふうに周りの人たちに受け取られていたのだろうか。そこには壮大なビジョンのようなものや、行動や判断を支える指針のようなものは初めからあったのだろうか。

松江のような地方都市で事業を始めて、地場の中小企業の多くがどうやらビジョンや理念を先行させる形では成り立っていないのではないかと感じてしまう。家族的に組織化されている場合もあるし、土地や場所、それに伴う営み的なものが先行していて自然発生的に組織的なものが生まれている。コミットを必要とする大きな物語が先にあるわけではなく、もっと身近な実感がそこにはあり、身体的な経験が蓄積されることにより事業そのものへの関係性も生まれていく。

一方でその形態による限界や閉塞感もあると思うし、他方では地縁血縁の延長線上にある営みを手放してしまった人たちが求めている手触り感や豊かさが、そこにはリアルに存在している。

最近では、経営資源を効率よく獲得するために、創業ほやほやの会社ですら立派なビジョンや理念を掲げることは当たり前になっている。逆にそれなしで企業することは不可能なようにも思える。良さげな会社名を決めること、ビジョンを描くこと、ホームページを作ること。それらは悩む必要もないぐらいの起業ToDoになっている。

全く関係のなかった人同士が結束し外部からの支援も獲得しながら何か物事を仕上げていくためには、地縁血縁的なものの代わりとして、創られた物語的ビジョンが必要なのはとても理解できる。そうした方が効率が良いのもとてもわかる。

けれど、消費社会に生きるわたしたちは、そのビジョン的なものの虚構さにも段々と気がつき始めている。多くの物語が倍速で視聴されコンテンツ化されていく時代において、ビジョンを語ること自体には少し慎重にならないといけないように感じる。

ロジカルに、戦略的に事業の構想を考えつつも、お互いに支え合う関係性を育んでいくには、言葉よりも行為だったり場所だったりが連続し蓄積していく機会そのものの設計が大切なのかもしれない。

言葉にはしつつも究極の理想として留めおかず、ただただそれを体現する場所で身体を動かし続ける。

所作や作法、習慣の伝染は時間がかかる営みで、それをどう事業性と両立させながら、法人としての輪郭がじわじわと浮き彫りになっていくのを待てるのか。

そういうふうに何かを作り上げていくスタイルは、日本のなかにはたくさんあるように思える。
わたしたちはその中かから「伝統」を再発見しないといけない。